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4/26/2007 本朝麗藻:紫式部の父親の漢詩 『本朝麗藻』は、日本平安時代の漢詩集です。
この作品集の作品は、ほぼ紫式部が生きた時代に作られたものと考えられます。事実、紫式部の父親藤原為時の作品も多く入っています。
詩集の編集者は、高階積善(たかしなのもりよし)です。麗藻作品で年時の明らかなもののうち、最も古いものは、982年(天元五年)、最も新しいものは、1008年(寛弘五)である。基本的に一条天皇の一代と重なる。
ここで、紫式部のお父さん為時の漢詩を選んで、掲出します。
落花渡水舞
花前春暖鳳池清,落蕊舞来度水程。分岸粧奢風漸送,上橋簪動月相迎。
飄超石瀬紅裙転,散過波塘玉履軽。此地猶応真勝地,宸遊再奏九韶声。
雨為水上絲 (長保五年,1003年5月1日)
暮雨濛濛池岸頭,更為水上亂絲浮。經從潭面沾難結,曳自波心脆不留。 細瀝應爭漁浦藕,斜飛欲貫釣磯鉤。誰知流下沈潛客,霜屢數莖夏裡秋。
未完
神話の断想: クリストフ・ヤメ『神話 芸術 現実』公論社 2000年久保陽一等訳
下記感想を述べる 近代以來的合理主義和啟蒙主義,把神話從一個古老的文字記述體系中驅逐出來後,人們發現神話逃亡的場所反而是人的心靈。也就是說,宣揚了神話死亡的消息後,近代的合理思想才發現,神話是不死的。即使把他剁碎成無數的碎片,那些分離開的碎片也會同時唱出同一首歌。人們在自己安靜的心靈中,能聽到神話和他的碎片的歌唱。人們發現了自己的可笑。問題不在於神話的死亡或終結,而在於宣揚他死亡的人們自己身上。 4月26日夜 4/25/2007 発表要旨詩境から歌境へ ―― 新古今時代の境意識を探って (和漢比較文学会95西部例会、発表要旨) 2007年4月21日
新古今時代の歌人は、我々の想像を遥かに越えた所で、観念的世界で詠歌していた。その観念的特徴は、様々な面において見えるのだが、本発表は歌論にしばしば見出す「境」の用語にその特徴を取り出し、「詩境」との関係において探ってみた。 藤原俊成、定家、慈円、良経等代表歌人の歌論には「境に入る」の用語が見られる。特に俊成の『千載集』序文では、「敷島山と御言の境に入りすぎたり」とあるように、和歌の日本的性格と伝統を確認した上、「歌のよしあし」を云うにつけ、境に入ることの重大性を明らかに理論的次元へと持ち込む姿勢は明確に見える。一見、歌論書で和歌という文芸において、異句同声に強調するが、いざ歌合のような具体的な批評の場となると、漢文・漢詩判詞に切り替え、漢詩の詩境意識に併せてその正当性を主張してみせる。藤原俊成は六百番歌合(恋十の十五番、寄海人恋)の中に思わず、「詩境」の言葉が滑り出したのも、その為であろうか。 六百番歌合の歌題は、院政期の漢詩集『本朝無題詩』の詩題に由来するものが多いが、顕著に見えるのは恋十の歌題である。主催者の藤原良経は、意図的に先祖の藤原忠通を中心とした九条家漢詩の美意識を、この歌合に導入したろうと考える。無題詩のメンバー達は、ほぼ例外なく「詩境」の言葉を愛用していた。当時詩壇の動きを敏感に捉えた大江匡房の『詩境記』は、この事情を如実に物語った。藤原俊成は無題詩の作者でもある藤原基俊に「入幽玄之境」なる判詞を学び、定家は「秋未出詩境」「詩境惜春暮」などの詩句を和歌に読み込み、良経は忠通の漢詩句を千五百番歌合の漢詩判に使われた痕跡が残っている。 従って新古今時代の歌人は観念的な作歌を営み、歌論に「境に入る」ことを強調するのも自然の成り行きであって、新古今時代の歌論はよって構造的に豊かになったといえる。 4/22/2007 【総是那種悲傷】: このタイトルでなら 原因は、よく分かりませんが、いつもこのタイトルで、何かを書いてみたい。
それは、【 総是NI的悲傷 】というものです。
何年か前から、このタイトルが頭の中に浮かんだり消え、消えたり浮かんでくるの、繰り返しでした。いったいその「NI 君の意味)は誰のことでしょうか。僕自身のこと、それとも?家族?よく分からない。
このタイトルで、何を書こうか?はっきりしていませんけれど、でもこのタイトルで書きたい。
いま、家にインターネット接続はできないので、中国語で書けません。そのうち、中国語で書くつもりです。
まあ一種の予告か?
みなさん、このタイトルであなたなら、何を書くのでしょうか?
もしよければ、書いてください。ここに訪ねてくれる才女、才子は何人もいますから。
何でもいい、書いてくれれば、ありがたい。
『 総是Ni的悲傷 』、このタイトルでなら、君は何を書くのだろうか。
『 総是NI的悲傷 』、如果用這個題目、NI将会写什MA?
詩境から歌境へ副題--新古今時代の境意識を探って--
4月21日(土)、第95回 和漢比較文学会西部例会で、上記のタイトルで、発表しました。
取り上げている方向としては、自分なりに納得のいくものですが、論述を進める際のテクが、やや欠けていることを、反省しています。
内容は、新古今時代(12~13世紀、通常、中世とも)の歌人の「境意識」についてでした。多くの先生方のご指導を頂き、本当に勉強になりました。もっとやってくれとのお励ましに心から感謝するとともに、自分の不勉強を恥ずかしく思いました。
後藤昭雄、新間一美、相田満、谷口、三木先生からご質問を頂きました。
懇親会で、北山先生、細木先生からもご意見を頂きました。
今回、時間的に余裕がなくなって、本来京都を見ようと思いましたが、実現できませんでした。漂流さんもお会いでできなくて、残念に思いますが、京都で夢筆生華さんにお会いできたこと、しかも大変お世話になりましたことを、心から感謝します。
夢筆さん(おとこだよ)は、とてもハンサムで、才能のある好青年です。やはり百聞は一見に如からず、のことわざの通り。
奈良も非常によかった。とまっていたホテルのすぐ近くに平城宮の遺跡があり、春風の中で、夕日を見ながら、広大な敷地の中を見歩きしていました。(写真はもうちょっと)。今は建て直している所。
以上、奈良の旅でした。 4/4/2007 学会発表と京都の旅 4月20日、学会発表のため、奈良に行くことになりました。
そのついで、京都へも行きたくなりましたので、帰りは京都に寄って来ようかな、と京都にも行くことにしました。
私の研究、実は多くの部分が京都を拠り所にします。和歌といえば、歌枕、また歌人の縁の地が京都にあります。いっつも京都へ行こうかな、と思いながら、それほど時間と金銭に余裕のない私、やっと今回は実現するようになりました。勿論、今まで奈良も京都も行ったことがありますが、ただしそのいずれも観光気分で行ったのではなく、受験や就職のためでした。どちらも失敗に終わったので、京都は私にとって、傷心の地ともいえます。
それに今回は、いっつもこのブログをお読み戴いている友人の二人が会う予定になりました。
お忙しいのに、そんなに快諾して戴けるなんて、夢見たいな気分です。お顔を会わせるだけでも本当に嬉しいが・・・
さてさて、お土産は何をあげようかな、さっさと旅支度をしなければならんな・・・
京都の見所は多い。
藤原定家のゆかりの地、常寂光寺にしました。嵯峨野、また松尾芭蕉もその当たりに行ったこともありますね。
『無名草子』の作者と云われる俊成女が、晩年花篭を腕に掲げ、散策した所もみたいな・・・
『無明抄』の作者鴨長明が書いた、在原業平の家も云ってみたいな。三条にあるとか・・・
『♪柱の傷は おととしの 五月五日のせいくらべ ちまき食べ食べ兄さんが 測ってくれた 背の丈~♪』 ←←←これは全く無関係のことですが、
ちまき柱・・・・
【業平中将の家は、三条の坊門小路より南の、高倉小路に面した所につい先日までありましたよ。やはり中将様の御屋敷ともなりますと柱一つとってもただとは違って"ちまき柱"とかいうものであったそうですが、全く何時頃の者の仕業でか、せっかくの柱も普通のように削ってしまってありました。前には長押なども角がない丸い形をしておりまして、実に古風に見えた事です。】
業平の家なんて、もうないとは知りながら言ってみたいと、戯言を言っていました。 ということで、京都の旅は、すごく楽しそうになりますね。思うとわくわく・・どきどき・・・・・ 4/1/2007 無題的概念 【無題】という概念は晩唐李商隠あたりに確立したらしい。李義山詩集に注した紀昀によれば、無題と名付けるものに
① 風刺寄託するものがあって、明らかに題をそれと表示することを望まない場合
② 戯れに閨情をうたい艶体の語を連ねる場合
③ 本事によって詩作した場合
④ 本題が失われ後人が無題と称する場合
⑤ 叩弾集の説に寓言、寓意の作
⑥ 漫吟して題の付けがたきもの、亡題と同意の場合
要するに、寓言寓言、風刺寄託、艶体閨情、失題亡題が【無題】詩に数えられる。
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